不倫というテーマは、日本の歴史上の偉人たちにもどうやら当てはまるようです。
遠い昔の日本は男女の性に対しては非常に大らかな国でした。『源氏物語』を見てわかるように、長い日本の歴史において、不倫は文化のひとつだったようです。
歴史の授業でも名が出てくる偉人の浮気・不倫について徹底解説します。
父に平城天皇の皇子・阿保親王、母に桓武天皇の皇女・伊都内親王を持つ、平安時代の貴族です。
和歌が上手なだけでなく、在原業平はかなりの美男子でもあったそうです。平安時代の歴史書『三代実録』には、「業平は体貌閑麗(美男子)」という記録があります。また、平安時代に成立した歌物語『伊勢物語』の主人公とされ、作中で数えきれないくらい多くの女性と関係し、エロティックな和歌を詠んでいます。
モテモテぶりと輝くような美しい容姿だった在原業平。 日本を代表するプレイボーイといえば光源氏を思い浮かべる方が多いでしょうが、光源氏は架空の人物です。実在したモテ男といえば、在原業平をおいて他にはいないでしょう。
有名な「ちはやふる」は、在原業平が詠んだ歌の一句です。『伊勢物語』の注釈書『和歌知顕集』に生涯で3733人の女性と関係を持ったと書かれています。 『古今和歌集』に30首収録されている和歌の名手は膨大な経験人数を誇り、タブーをも恐れず、性に貪欲な伝説のプレイボーイだったと言われています。
徳川5代目の将軍です。犬猫などの生物を大切に扱うべく『生類憐みの令』を制定した人物でもあります。
綱吉には鷹司信子という名の正妻がいたのですが、それにもかかわらず綱吉は女好きがひどく男色(同性愛)に執心したこともあったそうです。女性は家臣の妻や娘といった存在にまで手を出していたといいます。
臣下の牧野成貞の妻子との関係は有名です。牧野成貞には妻・阿久里と松、安、亀という名の3人の娘がいました。綱吉は妻・阿久里に手をだし、さらに次女の安まで手籠めにしようとするのです。このとき安には婚約者の成時という婿がいました。成時は綱吉に怒り、抗議のためか割腹自殺をしています。
そして他にも、綱吉の直属の部下柳沢吉保の側室との不倫です。当時、綱吉は柳沢の家に通いつめ、吉保の側室お染との不倫を繰り返していましたが、とうとうお染が妊娠してしまいます。子どもが生まれると、綱吉は柳沢家に松平という姓を与えたと言います。
歴史上、表向きは急逝とされている綱吉ですが、実は義綱の女好きに思い悩んで心を病んでしまった信子が、大奥にある『宇治の間』で綱吉を殺害し、無理心中をしたと大奥では語り継がれていたそうです。
明治の元勲の一人であり、後に総理大臣にまで昇りつめた伊藤博文。彼の偉業の陰には最愛の妻の梅子がいました。日本の変革期にあって懸命に夫を支え、まさに「内助の功」で伊藤を一流の政治家にしたのです。
当時、江戸時代末期の長州藩では藩論を巡ってきな臭い空気が漂い、伊藤は反対派によって命をつけ狙われたのでした。逃げてきた伊藤を梅子はかくまい、その後たびたび会うようになります。伊藤はすでに結婚しており、元々夫婦の折り合いが悪かったためにすぐに離婚して、梅子と結ばれます。
しかし伊藤は生来の女好きで、たびたび愛人を作っては浮名を流す日々を送っていました。それでも梅子は献身的であり、明治維新となって夫がどんどん出世していっても、その態度は変わらなかったといいます。
元々、読み書きすらできなかった梅子は、偉くなっていく夫のために教養を身に付けねばと奮闘し、政府高官の妻として英語やダンスなどの猛勉強を経て西洋文化を学んでいきました。
ついには鹿鳴館での社交や、宮中での改革などで大きな役割を果たすことになったのです。
総理大臣になっても女遊びをやめなかったと言います。岩倉具視の三女極子に関係を迫ったとか、下田歌子を口説いたなどの噂も立ち、スキャンダルとして新聞に書き立てられる日々が続きます。
また総理大臣として政策に対しても様々な批判もありましたが、梅子は「妻の鑑」として夫を支え続けました。
松方正義は、日本で最初の内閣府、伊藤博文内閣の大蔵大臣をつとめ、内閣総理大臣に就任しました。明治天皇から爵位も与えられている人物ですが、初代内閣総理大臣である伊藤博文と同じように、女好きだったことで知られています。
松方正義は26歳で結婚し、当時妻の満佐子は16歳という若さで、2年目に子供が生まれます。満佐子は58歳までに19人の子供を出産しています。
これだけの絶倫夫婦なのに、松方正義はそれでも足りずに、不倫で妾を妊娠させています。しかも、生まれた子どもは妻である満佐子が育てていたそうです。松方正義の不倫は、公認だったのかもしれませんし、妾とも思いのほか仲良くやれていたのかもしれません。
女性関係はだらしない松方正義ですが、その政治的手腕は評価されており明治天皇から絶大な信頼を受けていました。 そんな明治天皇から松方正義に『子どもは何人いるのか?』と尋ねられます。あまりに子どもが多いので、本人も正確な人数を把握しておらず、調査して報告すると回答しています。
昭和初期の文豪太宰治は、「走れメロス」や「人間失格」などの名文学を世に残しています。
彼もまた恋を繰り返し、愛に生きた人物でした。最後はその悲劇的な死によって人々の記憶に残り続けます。
太宰治は生前、幾度となく自殺未遂をしています。まず最初の自殺未遂は1929年の20歳の頃、小説の懸賞に応募したが落選したためだといわれています。
芸者の小山初代との結婚を反対されていた太宰は、結婚は認められたものの、実家が財産分与をしてくれないことに落胆して再び自殺未遂を起こします。この時には、たった3度会っただけのバー店員だった田部シメ子を道連れにしようとし、結局自分だけが助かります。
1935年、まだ大学留年を続けていた太宰は、実家からの仕送りが途絶えることを恐れて首吊り自殺を図りますが、未遂に終わります。結局は大学を除籍処分になったのでした。
翌年には妻初代の不倫行為が露見し、絶望した太宰は初代とまたもや自殺未遂をし、その後すぐに初代と離婚しました。
1938年、見合いで石原美和子と結婚しますが、数年後に、今度は太宰の愛読者である太田静子と恋に落ちました。
不倫関係でありながら、この二人の間には娘が一人生まれています。太宰は認知こそしましたが、終始冷たい態度を取り続け、その責任から逃げ回り続けたそうです。
あるとき屋台のうどん屋で、後に心中自殺することになる山崎富栄と知り合い、富栄とも恋に落ちました。太宰は富栄に「死ぬ気で恋愛してみないか」と告げたそうです。
1948年、肺結核を患っていた太宰は、玉川上水へ富栄とともに入水自殺します。それまで何度も自殺未遂を繰り返し、ようやく本望を叶えたわけですが、この太宰というダメ人間は、最後の最後まで自分の身勝手を貫き通しただけのようです。
しかし、太宰治のことを悪く言う人間はさほどおらず、その行動の身勝手さとは別にして、人間的魅力のあった人物だったように思われます。
どんなに立派な人でも、ふとしたきっかけで恋に落ちてしまうものです。
世界の歴史上の偉人の不倫とはまた違って、日本独特の違った背景で、面白いエピソードがあることがわかります。
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