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江戸時代・吉原の恋愛事情 – 大河ドラマ『べらぼう』の舞台から見る愛のかたち
2025.04.202025年大河ドラマ『べらぼう』の舞台である江戸時代の吉原では、身分制度に縛られながらも様々な愛のかたちが存在しました。遊郭の仕組みから遊女と客の恋模様まで、当時の恋愛事情をやさしく解説します。
大河ドラマ『べらぼう』と江戸・吉原の世界観
2025年放送のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は、江戸時代中期の吉原遊郭を舞台に、出版商・蔦屋重三郎(通称:蔦重)の波乱万丈の生涯を描きます。吉原は徳川幕府公認の大規模な遊郭(ゆうかく)で、単なる性の歓楽街に留まらず江戸のトレンド発信地でもありました。とりわけ最上級の遊女である花魁(おいらん)たちは当時のスター的存在で、華やかなファッションや文化をリードしていたのです。ドラマ『べらぼう』でも、この華やかな吉原の表と陰影に満ちた裏側がリアルに描かれており、視聴者は当時の恋愛事情や人間模様に触れることができます。
吉原はもともと江戸幕府によって設置された公許の遊郭で、江戸時代を通じて浅草の一角に存在しました(新吉原)。身分制度に厳しい時代でしたが、武士から商人まで身分を超えた男性たちが密かに集う社交場でもありました。蔦重こと蔦屋重三郎も吉原で生まれ育った人物であり、幼い頃からこの土地の文化や人情に親しんでいたと言われます。その蔦重が主人公の『べらぼう』は、吉原という独特の世界を舞台に、人々の夢や恋、挫折を描く物語です。今回はドラマの舞台でもある江戸時代の吉原にスポットを当て、当時の恋愛観や遊女たちの恋模様について、歴史に詳しくない方にもわかりやすく解説してみましょう。
吉原の仕組み:遊郭とは?遊女とは?
吉原(よしわら)とは、江戸幕府公認の遊郭(ゆうかく)です。遊郭とは、遊女(娼婦)と呼ばれる女性たちが所属し、客に遊興や色恋のサービスを提供する区域のこと。幕府は町中での無秩序な売春を禁じ、特定の地域に集めて管理していました。江戸の吉原遊郭もその一つで、周囲を塀と堀で囲まれた「遊女たちの町」でした。入口には「大門(おおもん)」と呼ばれる立派な門があり、夜には門が閉まって外界と隔絶される造りでした。ある意味、江戸時代の一種の娯楽テーマパークのような場所だったと言えるかもしれません。
吉原では多くの店(妓楼=ぎろう)が軒を連ね、数百人規模の遊女が暮らしていました。その世界には厳しい序列があり、最高位の遊女は太夫(たゆう)や後に花魁(おいらん)と呼ばれました。彼女たちは幼少期から箏(こと)や三味線、書画、和歌、茶道といった高度な教養を仕込まれ、一流の社交術を身につけています。格式高い客をもてなすため、単に容姿が美しいだけでなく会話や芸事でも楽しませるプロフェッショナルだったのです。
江戸時代の吉原では、花魁たちが豪華絢爛な衣装に身を包み練り歩く「花魁道中」の姿が名物でした。桜咲く季節などに披露されたその行列は、まるで絵巻から抜け出したような華麗さで、見物人を惹きつけました。最上級の花魁ともなると出迎えの際に多数の禿(かむろ)や新造といった付き人を従え、ゆったりとした八文字歩きで客を迎えに行くのです。こうした演出も含め、吉原は非日常の夢の世界を演出していました。一方で、その夢の裏側では、遊女たちは自前で豪華な着物や簪(かんざし)を揃えるために借金を重ね、昼夜を問わぬ過酷な労働に追われていたのも事実です。華やかな世界の陰で、彼女たちは食べる間も惜しんで客をとり、生き抜いていたことから、「遊女はいつもお腹をすかせていた」なんて話も伝わっています。
吉原の中で働く女性はすべてが高級花魁というわけではなく、身分や料金によってランクがありました。大見世(おおみせ)と呼ばれる一流の店には花魁クラスの高位遊女がいて、予約なしでは会えません。一方、格子窓越しに並んだ遊女を選ぶ「張見世(はりみせ)」というシステムもあり、こちらは中級以下の遊女が対応しました。料金の高低でサービス内容や待遇も変わりましたが、どの店でも基本的には客は遊女に直接交渉するのではなく、引手茶屋と呼ばれる案内所(待合茶屋)を通して遊ぶ段取りを決めます。吉原内には定められた作法や決まりが数多く存在し、初めて遊郭に訪れる男性のためには「吉原細見」というガイドブックまで売られていました。実は蔦屋重三郎もこの「吉原細見」の出版から出版業をスタートさせており、吉原の案内本は江戸のベストセラーの一つでもあったのです。
吉原の恋愛事情:疑似恋愛から本気の愛まで
吉原が他の色街と一線を画すのは、「疑似恋愛」のシステムが洗練されていた点です。遊女たちは客にただ肉体を売るのではなく、まるで恋人同士のような甘い時間を提供しました。例えば初対面の客といきなり床を共にする(肉体関係を結ぶ)ことはしません。まずは宴席で向き合い、会話やお酒の席を楽しみます。しかも初回は緊張感を高めるためか、花魁クラスの場合は客は直接言葉を交わすことすらできない決まりでした。子供のころ、好きな人を前にすると緊張で口もきけなかった…そんな初々しい恋心を思い出させるような演出です。2回目の訪問を「裏を返す」と言い、間を空けずに通えば誠意を示すことになりました。そして3度目にようやく馴染み(常連客)となり、晴れて褥(しとね)を共にできる──というのが建前でした。実際には「吉原の花魁は三回目で肌を許す」というのは俗説で、必ずしも厳格なルールではなかったようですが、少なくとも客に“恋の駆け引き”を味わわせる工夫であったのは確かでしょう。客の側もお気に入りの遊女に入れあげ、他の店に浮気すれば御法度です。もし浮気が発覚すれば、馴染みの妓楼の者たちに散々に冷やかされ、髷(まげ)を切り落とされるなど恥ずかしいお仕置きを受けたとの記録もあります。それほどまでに吉原では“一途な恋”の空気を作り出していたのです。
こうした疑似恋愛の空間で、実際に本気の恋が芽生えることもありました。まず客側の恋としては、通いつめるうちに「この遊女を身請けして妻にしたい」と願う例があります。身請けとは、客が遊女の抱えている借金や違約金をすべて店に支払い、遊女を遊郭から引き取ることです。いわば現代でいう「買い取り」によって自由の身にするわけですが、当時その費用は途方もない額でした。有名な美貌の花魁ともなれば身請け金は千両単位、庶民には到底払えない大金です。実際に身請けが叶ったのはごく一握りの高級遊女だけで、しかも相手は大店の旦那や大名クラスと相場が決まっていました。お金のない若者が恋い焦がれても、悲しいかな現実は厳しかったのです。
一方、遊女側にも本気の恋はありました。遊女たちは仕事で多くの男性に接しますが、心の底では「誰かひとりを本気で愛したい」と願っていました。彼女たちが密かに恋した相手のことを、吉原では「間夫(まぶ)」あるいは「情夫(いろ)」と呼びます。現代風に言えば彼氏のような存在ですが、もちろん恋愛は御法度なので表向きは禁止ですそれでも“暗黙の了解”で間夫を持つ遊女はおり、ばれないように逢瀬を重ねました。具体的には、自分で店にお金を払い、恋しい男性を客として呼ぶ方法があります。
これを「身揚げ」と言い、本来店に納める揚げ代(あげだい)という料金を遊女自身が負担して休暇を作るのです。例えばドラマ『べらぼう』でも、松葉屋の遊女・うつせみが蔦重に頼んで想い人の浪人・新之助に手紙を出し、「花代(はなだい)は自分が持つから会いに来てほしい」と伝えるシーンがありました。
まさに身揚げで間夫を呼ぼうとする場面で、彼女の切ない恋心が描かれています。店側も遊女が客に尽くす「擬似恋愛ビジネス」の範疇で間夫の存在を黙認することもありましたが、度が過ぎれば看過できません。もし間夫に夢中になるあまり営業をおろそかにするようなら、店はその男の立ち入りを禁じたり、遊女を厳しく監視したのです。
遊女にとって間夫は心の支えですが、それが露見すれば命がけの危険すら伴いました。会えぬ辛さから「いっそ一緒に死のう…」と心中に及んだ例もあったと伝わります。まさに秘密の恋は命懸けだったのです。
恋に落ちた遊女と客の物語
江戸時代の吉原では、遊女と客の叶わぬ恋が数多く語り継がれています。その中でも特に有名なのが、高尾太夫(たかおだゆう)と仙台藩主・伊達綱宗(だて つなむね)の物語です。高尾太夫は江戸初期・寛文年間の伝説的な花魁で、三浦屋という妓楼の看板遊女でした。当時、若き大名だった伊達綱宗は放蕩の噂があり、吉原に通い詰めて高尾に入れあげます。そして莫大な金(なんと3000両とも)を積んで高尾を身請けし、自分のもとに迎えようとしました。ところが、高尾太夫はどんなに説得されても綱宗に心を許さず、体の関係を拒み続けたのです。
ついに業を煮やした綱宗は、ある日川舟の上で高尾を逆さ吊りにし、刀で無惨にも斬り殺してしまったといいます。高尾には旗本の男性との固い恋仲があり、彼女は最後まで愛する人以外に身も心も許さなかった──この毅然とした態度が綱宗の怒りを買ったとも伝えられます。真偽のほどは定かでなく、実際の高尾太夫は病で若くして亡くなったとの記録もありますが、この「仙台高尾」の悲恋物語は芝居や講談で脚色され、江戸の人々の間で広く知られるようになりました。お金よりも大切な本当の恋があったというお話は、金権がものをいう浮世で一服の清涼剤のように受け取られたのでしょう。権力に屈せず純愛を貫いた高尾太夫の最期は、人々の心に強く焼き付き、「粋な女の鑑(かがみ)」として今なお語られています。
この他にも、吉原や各地の遊郭では遊女と客の悲恋が幾度となく繰り返されました。近松門左衛門の浄瑠璃『冥途の飛脚』や『曽根崎心中』のように、遊女と馴染み客が周囲に引き裂かれ、絶望の末に心中(しんじゅう)する物語も江戸時代には人気を博しました。実際に起きた心中事件が筆録されたり、瓦版に載ったりすることもあったようです。愛し合いながらも世に許されず、最期に「来世で結ばれよう」と命を絶つ──そんな劇的な結末は現代の感覚では痛ましいですが、当時はひとつの美談として受け止められた節もあります。それだけ封建社会のしがらみの中で、自由な恋愛を貫くことが難しかったということでしょう。
江戸時代の恋愛観と現代との違い
江戸時代と現代とでは、恋愛観や結婚観も大きく異なります。まず武士階級や上流階級においては、結婚は家と家との結びつきを目的とした政略結婚が基本でした。娘たちは幼い頃から父母に「いい縁組」を用意され、本人の恋愛感情よりも家の格や利害が優先されたのです。恋愛はむしろ障害であり、武家の女性は結婚前に自由恋愛などもってのほか。現代のように婚前交際することなど許されず、花嫁衣装の白無垢(しろむく)には「実家の家を一度死んで、新しい家に尽くす」という純潔と従順の意味すら込められていました。一方で庶民(町人や百姓)階級については、武家ほど厳格ではなく比較的自由な恋愛が行われていたとされます。
若い男女が祭礼や縁日で知り合い、気が合えば恋仲になり、そのまま所帯を持つということも珍しくありませんでした。お見合い結婚ばかりと思いきや、江戸の町人は案外おおらかに恋愛や再婚を楽しんでおり、今でいう「できちゃった婚」が意外と多かったという研究もあります。また江戸時代は離婚も現在よりはるかに容易で、夫が一方的に離縁状(いわゆる三行半)を突きつければ離婚できたため、離婚率も現代より高かったそうです。極端に言えば「合わなければ別れて再スタート」が可能だった分、良くも悪くも恋愛・結婚に対して柔軟だった面もあるでしょう。
とはいえ、江戸の庶民の恋愛が完全な自由恋愛だったかというと疑問も残ります。やはり親や周囲の目はあり、身分や職業の違いから結ばれない恋も数多く存在しました。武家のような厳しさはなくとも、町人社会にもそれなりのしきたりがあり、特に裕福な商家ほど家同士の釣り合いを気にして娘息子の縁組を決めたものです。結果として、身分違いの恋に落ちた男女が駆け落ちしたり、先述のように心中事件に至ったりすることもありました。
また男性にとって正妻との間にロマンスがなくても不満は少なく、外で遊ぶ(妾や遊郭に通う)ことが黙認されていた風潮も特徴的です。夫婦愛よりも子を残すことや家を守ることが重んじられた分、男性は情緒的な慰めを遊女や芸者に求め、女性もそれを「甲斐性」とある程度受け入れていた節があります(もちろん個人差はありますが)。現代のように「配偶者一筋であるべき」という価値観は薄く、ある意味ドライで割り切った関係も多かったのです。
現代では好き合った者同士が結婚する恋愛結婚が当たり前で、身分制度もありません。身分や家柄を理由に「門前払い」される恋は考えにくくなりました。そうした意味で、江戸時代の恋は現代に比べて制約が多く、一途な想いを通すのは困難だったといえます。しかしその分、「障害があるから燃える恋」や「秘められたロマンス」にドラマ性が生まれていた面も否めません。会いたくても会えないもどかしさが恋心をかき立て、手紙や和歌に想いを綴る──スマホで即連絡が取れる今とは異なる情緒が、当時の恋愛にはあったのでしょう。
吉原の恋愛が描く“愛のかたち”とは?
吉原で繰り広げられた様々な恋模様は、私たちに愛のかたちの多様さを教えてくれます。身分やお金に縛られた時代でも、人々は一瞬のぬくもりに本当の愛を求めました。遊郭という特殊な環境では、純粋な恋情もあれば計算ずくの愛もあり、儚い夢のような逢瀬もあれば一生をかけた深い情もありました。たとえ偽りから始まった関係でも、そこに心が伴えば本物の恋に変わり得る――吉原の世界はそんな人間くさい愛を映し出しています。
大河ドラマ『べらぼう』でも、吉原の様々な愛のかたちが物語に彩りを添えています。蔦屋重三郎は吉原育ちゆえに、遊女や客たちの人情の機微をよく理解していました。劇中では、先述した遊女・うつせみのように禁じられた恋に生きる女性が登場し、蔦重も彼女の想いに心を動かされます。権力者である田沼意次や旗本たちの豪奢な遊興の陰で、身分の低い者たちが必死に自分の愛を貫こうとする姿も描かれます。こうした人間ドラマを通じて、『べらぼう』は単なる歴史劇に留まらず普遍的な愛の物語として視聴者の胸に迫ってくるのです。
江戸時代の吉原で育まれた恋愛は、現代の私たちから見ると不自由で切ないものかもしれません。しかし、そこに生きた人々の喜びや苦しみは、時代を超えて共感できるものばかりです。身分制度や社会のしがらみに翻弄されながらも、自由恋愛では得られないような深い情念とドラマがあった――それが吉原の恋愛が描く「愛のかたち」と言えるでしょう。現代では考えられないような犠牲や覚悟を伴う恋も、当時は確かに存在しました。だからこそ、その物語は今なお語り継がれ、作品の題材にもなり続けています。
『べらぼう』の登場人物やテーマとのつながり
『べらぼう』では、主人公の蔦屋重三郎をはじめ登場人物たちの生き様に、吉原で花開く様々な愛の形が投影されています。蔦重自身、吉原の文化や女性たちの現実を見聞きして育ったことで、人間の情愛に対する洞察を持ち合わせていました。例えば劇中で彼は、うつせみと新之介の恋を陰ながら手助けしつつも、その危うさに心を痛める場面があります。また、蔦重が手がけた出版物には吉原を舞台にした読本や浮世絵が多く、そこには当時の恋愛観や男女の機微が数多く描かれていました。ドラマの中で描かれる出版物や絵草紙のエピソードも、実は吉原の恋愛事情とリンクしているのです。
さらに、『べらぼう』には田沼意次の時代背景が絡み、吉原を取り巻く社会の変化もテーマの一つとなっています。幕末に至る少し前の江戸中期から後期にかけて、風俗統制や価値観の揺らぎがありましたが、それでも吉原の熱気は衰えず多くの男女を惹きつけました。そうした中で蔦重は処罰を受けながらも官能的な読本を出版するなど、時代に挑んでいきます。彼が出版した洒落本や浮世絵には、吉原での男女の色恋や、身分を超えた滑稽なやりとりがユーモラスに描かれており、当時の人々が恋愛に何を求めていたかを知る手がかりにもなります。
要するに、吉原の恋愛事情は『べらぼう』の物語と切っても切れない縦糸・横糸となっています。華やかながらも悲哀に満ちた遊女たちの恋、そこに通う男たちの愚かさや純情、そしてそれらを見つめる蔦重のまなざし──これらが重なり合い、ドラマの世界に厚みを与えているのです。歴史に詳しくない視聴者でも、吉原の恋のあれこれを知ると、『べらぼう』の登場人物たちが抱える想いに一層共感できるでしょう。当時の社会では許されなかった様々な愛のかたちが、時を超えて私たちの心に問いかけてきます。それは「愛とは何か?」「人はなぜ惹かれ合うのか?」という普遍的なテーマです。『べらぼう』を通じて江戸時代の恋愛観に思いを馳せることで、現代の私たちの恋愛を見つめ直すきっかけにもなるかもしれません。
最後に、吉原遊郭は明治維新後の文明開化で廃止されるまで約300年にわたり存続し、多くの恋の歓喜と悲哀を生みました(遊郭制度そのものは昭和33年まで続きました)。形こそ違えど、人が人を想う気持ちはいつの時代も変わりません。江戸時代・吉原の恋愛事情は、現代を生きる私たちにも「愛とは何か」を考えさせる鏡と言えるでしょう。ドラマ『べらぼう』の世界に浸りながら、ぜひ当時の人々の恋に思いを巡らせてみてください。きっと今まで知らなかった江戸の人情とロマンが感じられるはずです。
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