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日本史上初の不倫事件:允恭天皇と弟姫の物語
2025.05.045世紀、允恭天皇が皇后の妹・弟姫と密かに愛し合った禁断の恋。この日本史上初めて記録された不倫事件について、皇后の嫉妬や妹姫の悲恋など古代の人間ドラマを、当時の結婚観を交えてひも解きます。
日本史上初の不倫事件:允恭天皇と弟姫の物語
不倫とは何か
不倫とは、既婚者が本来守るべき婚姻のルールを破り、配偶者以外の相手と恋愛関係や肉体関係を持つことを指します。簡単に言えば、結婚しているにもかかわらず他の人と密かな恋に落ちる行為です。実は、このような禁じられた恋は古代から存在していました。古代日本の物語にも、既婚者が別の相手に心を奪われてしまう場面が描かれています。では、日本の歴史上で最初に記録された不倫事件とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
古代日本で最初に記録された不倫:允恭天皇と弟姫
日本の古代史に残る最初の不倫事件として語られるのが、第19代の允恭(いんぎょう)天皇と「弟姫(おとひめ)」と呼ばれる女性との恋物語です。允恭天皇は5世紀頃の天皇で、正妻である皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を迎えていました。弟姫はその皇后の実の妹で、当時たいへんな美女として知られていました。伝説によれば、弟姫は「衣通姫(そとおりひめ)」とも呼ばれ、その名の通り美しさの輝きが衣を透けて外に現れるほどだったと伝えられます。
あるとき允恭天皇は宮中での宴で、皇后が舞を舞った後に習わしの挨拶をしなかったことを軽く咎めました。困った皇后がとっさに「実はとても美しい妹(=弟姫)がいます」と口にしたことで、天皇はその存在に強い関心を持ちます。「それほどまで美しい女性ならぜひ会ってみたい」——そう思った天皇は、どうにかして弟姫を宮廷に招こうと決心しました。
しかし、この恋には大きな障害がありました。弟姫は皇后の妹、つまり天皇にとって義理の妹に当たります。当然ながら皇后は妹を天皇の側室として差し出すことに難色を示しました。自分の大切な妹を差し出せば、妹の類まれな美貌ゆえに天皇の愛情が自分から移ってしまうのは明らかです。皇后としては、それは避けたい事態でした。
秘められた恋と宮廷の葛藤
皇后の反対にもかかわらず、允恭天皇の弟姫への思いは募るばかりでした。そこで天皇は一計を案じます。皇居から遠く離れた場所に新たな離宮を建て、そこで誰にも知られず弟姫と会おうと考えたのです。宮中から離れた河内国(現在の大阪府付近)の藤原という地に離宮が設けられ、弟姫はひっそりとそこに匿われました。こうして天皇は、あたかも皇后の目を避けるかのように密かに弟姫のもとへ通うことになります。
もちろん、弟姫自身も悩んでいました。姉である皇后に対する後ろめたさと、天皇への思いとの間で揺れ動いたと考えられます。初め、弟姫は何度も天皇からの召し出しを断ったとも伝えられています。皇后が嫉妬深い性格であることを知っていた弟姫は、「たとえ天皇の命令であっても、姉上(皇后)を悲しませるわけにはいかない」と抵抗したのです。それでも天皇の強い執念によって、最終的には弟姫は離宮へ招かれることになりました。こうして許されざる恋が始まったのです。
允恭天皇は離宮である藤原宮に足繁く通い、弟姫との逢瀬を重ねました。その際、表向きには「狩りに出かける」と称して宮廷を出発したといいます。当時の天皇が外出する際には多くの供を伴い、準備も大掛かりになります。しかし天皇は皇后に悟られないよう細心の注意を払い、密会の事実を隠そうとしました。まさに天皇自らが繰り広げた秘密の恋だったのです。
当時の結婚観と恋愛観の背景
このような出来事が起きた背景には、当時の結婚制度や男女の関係に対する考え方があります。古代日本の皇族や貴族の男性は、一人の正妻(正式な皇后や夫人)を持ちながら、他にも複数の妃や側室を持つことが珍しくありませんでした。政治的な同盟や家系の維持のため、複数の女性と婚姻関係を結ぶことが社会的に認められていたのです。天皇といえども例外ではなく、むしろ国家のために必要な慣習ともされていました。
しかし、そのような時代であっても、妻たちの感情が存在しないわけではありません。正妻である皇后にとって夫である天皇の愛情が自分から離れていくことは、やはり辛いことでした。たとえ側室を持つこと自体は制度上許されていても、人の心まで割り切ることは難しく、嫉妬や葛藤が生まれるのは無理もないことでした。また、皇后の妹という立場は特に微妙でした。単なる側室ではなく、自分の身内が相手であるだけに、皇后にとっては裏切りに近い思いがあったでしょう。
一方、允恭天皇の行動は当時の倫理観から見ても異例だったかもしれません。皇后の強い反対を押し切り、密かに妹と関係を持ったことは、社会規範を破る行為と受け取られました。公式の場では皇族の結婚や側室迎え入れは儀礼を経て行われるものですが、今回のように皇后の了解を得ないまま秘密裏に関係を結ぶのは異様であり、**「醜聞(しゅうぶん)」**として語り伝えられることになったのです。
露見と事件後の顛末
しばらくの間、允恭天皇と弟姫の密会は隠されていましたが、やがて皇后の知るところとなります。鋭い皇后は天皇の行動の変化に気づいたのでしょう。記録によれば、皇后は天皇に対し「最近狩りに出かける回数が多すぎるのではありませんか」と厳しく咎めたとされています。これは単なる狩りの頻度を心配する言葉ではなく、暗に弟姫との逢瀬を控えるよう求めたものでした。突然の皇后の叱責に、さすがの天皇も肝を冷やしたことでしょう。この出来事以降、天皇は藤原宮への訪問を減らさざるを得なくなりました。皇后の怒りを買うことを恐れ、それ以上の強引な逢瀬は控えざるをえなかったのです。
皇后の怒りは相当に激しく、一時は自ら命を絶とうとするほどであったとも伝わります。あるとき皇后が出産の床にあった際、天皇が弟姫のもとへ向かったことを知り、「私が命がけで子を産もうという時に、陛下はあの方の所へ行かれるのですか」と嘆き悲しみました。そして「それほどまでになさるのであれば、いっそこの産殿(さんでん)に火を放って死にます」とまで訴えたのです。この言葉に驚いた天皇は大急ぎで駆けつけ、皇后に平身低頭して詫びました。まさに家庭内の深刻な危機ですが、当時としても異例の騒動だったに違いありません。
そうした中で、弟姫の心中も複雑だったと想像されます。離宮でひたすら天皇の訪れを待つ日々が続き、やがて訪問が減っていったことで、弟姫は寂しさを募らせました。伝説では、弟姫は自らの切ない気持ちを和歌に詠んだとされています。その歌には「海辺に揺れる海藻が、たまに岸に寄せては返すように、あなた(天皇)に会えるのも時々になってしまいました」という意味のことが綴られており、愛する人となかなか会えない悲しみがにじんでいます。
まとめ:古代の不倫が映し出すもの
允恭天皇と弟姫の物語は、日本史上初めて記録された不倫事件として伝えられています。この古代の禁じられた恋は、当時の結婚観や社会の在り方、そして人々の心情を浮き彫りにしています。制度上は複数の配偶者を持つことが許されていた時代でも、愛する人を独占したいという思い、愛情を失う不安、そして禁断の恋に身を焦がす情熱は、普遍的な人間ドラマと言えるでしょう。皇后の立場から見れば妹と夫の裏切りに苦しむ物語であり、弟姫の立場から見れば愛と罪悪感に引き裂かれる悲恋でもあります。
この事件は、後世に『日本書紀』などの史書にも記録され、古代の天皇であっても人間らしい感情のもつれに悩まされていたことを伝えています。結局、允恭天皇は皇后の説得もあって弟姫との密会を控えるようになり、大きな争いには至りませんでしたが、三人の心には複雑な思いが残ったことでしょう。古代の時代背景と恋愛事情を知ることで、この最初の不倫事件が単なるスキャンダルではなく、人間模様の一つの形として理解できるのではないでしょうか。
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