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戦国時代の結婚と恋愛事情を現代と比較してみた
2025.04.13戦国時代の夫婦関係や政略結婚の実態を解説。姫たちの恋愛、側室制度、現代との比較を通じて、恋愛観の本質に迫ります。
戦国時代の結婚制度:家と家を結ぶ政略結婚が中心
戦国時代の結婚は、個人同士の恋愛というより家と家との結びつきが最優先でした。当時は大名同士が婚姻によって同盟を強化するのが一般的で、政略結婚が中心だったのです。例えば、織田信長の妹・お市の方と浅井長政の縁組も、織田家と浅井家の同盟強化が目的でした。現代のような「好き同士だから結婚する」という恋愛結婚の概念は、当時の上流社会には基本的に存在しなかったといえます。政略結婚とはいえ、当事者の夫婦にとっては命がけの側面もありました。ひとたび同盟が破綻すれば、離縁だけでなく最悪の場合は命まで危うくなるからです。実際、織田信長の娘を正室に迎えていた徳川家康の長男・信康は、妻(信長の娘)が夫の挙動を不審に思い実父である信長に密告したことで、武田氏への内通を疑われ、家康によって切腹させられるという悲劇的な結末を迎えました。このように妻が実家のスパイのような役割を果たす例もあり、当時の婚姻関係には常に政略の影がつきまとっていたのです。また、大名同士の関係悪化に伴い離縁が行われることもしばしばでした。浅井長政は元々六角家の家臣の娘を正妻としていましたが、六角家との関係が悪くなるとその妻を離縁し、織田信長と同盟を結ぶためにお市の方を新たな正室に迎えています。このように、戦国の正室は同盟の駒として位置づけられ、家同士の利害によって配置換えさえ行われる存在でした。現代の結婚と比べると個人の意思より家の存続や勢力拡大が重視されていた点で、結婚制度自体がまるで違うと言えるでしょう。
戦国武将の夫婦関係と恋愛観:夫婦愛はあったのか?
政略結婚が多かった戦国時代ですが、夫婦の間に愛情は存在したのでしょうか? 結論から言えば、「必ずしも冷たい関係ばかりではなかった」です。確かに多くの結婚は政治的なものでしたが、そこから信頼や愛情が芽生えるケースもあったのです。とくに下級武士や庶民の場合は、親の取り決めはあっても個人の感情が尊重される結婚も多く、身分次第では恋愛要素のある結婚も見られました。また、政略結婚で結ばれた上流層の夫婦でも、仲睦まじい夫婦になった例があります。例えば、甲斐の武田信玄は正室の三条夫人を政略結婚で迎えましたが、信玄は彼女に深い愛情を注いだと伝わっています。上杉謙信の場合、生涯独身を貫いたとも言われますが、側室の菜々という女性との関係では親密な情愛があったとも言われます。このように、大名であっても夫婦愛を重んじた例が存在したのです。実際、戦国期には「おしどり夫婦」として語られるカップルもいます。肥前佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)とその継室・陽泰院(ようたいいん)の夫婦は、その代表でしょう。直茂は政治的な縁談ではなく一目惚れで彼女を妻に迎えた珍しい例で、二人は自由恋愛の末に結ばれた熱々な夫婦だったとされています。直茂32歳・陽泰院29歳で出会った二人は、直茂が家中の反対を押し切って再婚に踏み切るほど相思相愛でした。
結婚生活は実に49年にも及び、晩年まで直茂は彼女を「かか(母ちゃんの意の親しみを込めた呼び方)」と呼び、何事も相談するほど信頼し合う仲睦まじい夫婦だったと伝えられています。さらに、越後上杉家の家老・直江兼続(なおえかねつぐ)と正室のお船の方(おふねのかた)も有名なおしどり夫婦です。お船の方は聡明で内助の功に優れ、夫・兼続を生涯支え続けました。そのため「賢妻」と称えられ、夫婦仲もたいへん睦まじかったという記録があります。二人は共に上杉家に尽くし、兼続の死後もお船の方は出家して上杉家の一族の一員として遇されています。このように、政治的結婚からスタートしても深い絆で結ばれた夫婦も存在し、戦国の世にも夫婦愛は確かにあったのです。とはいえ、戦国期の夫婦のあり方は現代とやはり異なります。武将の正室となった女性には、単に家庭を守るだけでなく領地経営や外交の補佐といった役割も期待されました。夫が留守の間に城を預かったり、他家との交渉役を務めたりと、家の繁栄のために奮闘する妻も多かったのです。そうした共同作業の中で芽生えた信頼関係が愛情に発展することもあれば、逆に政略ゆえの軋轢から心が通わない夫婦もいたでしょう。つまり戦国の恋愛観は一概には語れず、立場や状況によって千差万別だったといえます。
側室制度と婚外関係:戦国の「浮気」は当たり前?
戦国時代の武将たちの結婚観でもう一つ重要なのが、一夫多妻的な側室制度の存在です。大名にとって家の跡継ぎを残すことは至上命題でした。正室との間に男子が生まれない可能性や、先述のように政略関係の変化で正室と離縁する事態もあります。そのリスクに備えるため、多くの大名は側室(そくしつ)と呼ばれる複数の妻を持つことが一般的でした。側室とは現代で言うところの愛人とはだいぶ異なります。当時の側室は正式に「妻」として位置づけられる存在であり、単なる恋愛感情で囲うものではなく子を産んでもらうための制度的な妻でした。いわば「跡継ぎを確保するための第二夫人」のような役割です。正室が産んだ子が嫡男となるのが原則ですが、正室に男子がいなければ側室の産んだ男子を正室の養子とする形で嫡子に立てることもありました。実際、浅井長政はお市との間に男子を得られなかったため、側室の産んだ子(万福丸)をお市の方の養子とみなして跡継ぎにしようとしました(この万福丸は浅井家滅亡の際に幼くして殺されてしまいますが)。このように、側室の子供も家を継ぐ重要な存在となり得たのです。側室は正室より身分が低い家の女性から選ばれるのが通例で、正室とバッティングしないよう配慮されました。大名クラスともなると、まだ正室がいない段階で先に側室を迎えて子をなしておくケースもありました。正室の座は有力大名との同盟に使うためキープしておき、血筋を残すこと自体は側室で進めておく…という具合です。
つまり正室と側室では出自から役割まで全く異なっており、「正妻不在なら側室が繰り上がって正室になる」といった単純なものでもありません。側室はあくまで側室、正室は別格というのが戦国の結婚制度でした。こう聞くと、「それって浮気公認ってこと?」と思われるかもしれません。確かに現代の一夫一妻制からすれば、正妻がいながら他に妻を持つのは不貞のように感じます。しかし戦国時代では、大名の複数妻帯は社会的に容認された公的な制度でした。婚外恋愛というより、「複数の正式なパートナーを持つ結婚制度」と言ったほうが近いでしょう。嫉妬や葛藤が全く無かったわけではありませんが、少なくとも表向きには正室もそれを了承し受け入れるのが普通でした。有名な例では、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)は夫が多くの側室を持つことに心を砕きつつも、正式な妻として家中をまとめ続けました。秀吉はねねを深く信頼し、「北政所」として豊臣家臣団や諸大名との折衝を任せるほどです。一方で秀吉は側室の淀殿(茶々)にも心を配り、茶々の体調を気遣う優しい手紙を送ったことが近年明らかになっています。2017年に発見された秀吉の直筆書状には、高熱でお灸を据えた茶々の容態を案じつつ、快方に向かったと聞いて安堵した旨や、「秋刀魚を送ったから食べるように」といった微笑ましい内容が綴られていました。
文末には「おちゃちゃ」「大かう(太閤)」と二人の愛称が書かれており、天下人・秀吉が側室の茶々に細やかな愛情を注いでいたことがうかがえます。とはいえ、側室たちの間で嫉妬心が芽生えることも避けられません。先の秀吉の例でも、側室同士の序列争いや嫉妬はあったようです。史料によれば、ある花見の宴で茶々と他の側室(京極竜子とも言われます)が「誰が先に秀吉と杯を交わすか」で張り合い、場が険悪になったため正室のねねや前田利家の妻まつが仲裁に入った、という逸話も残されています(※諸説あります)。このように複数の妻がいることで生じるトラブルはあったものの、公的には側室は必要悪ならぬ「必要必然」の存在として認識されていたのです。一方で、女性側の婚外恋愛は厳しく禁じられていました。正室が他の男性と密通するなどもってのほかで、もし発覚すれば本人や相手は命に関わる大罪でした。実例は多く残っていませんが、徳川家康の正室・築山殿(つきやまどの)は武田方と内通した嫌疑をかけられて殺害されています(実際のところは政争に巻き込まれた可能性が高いですが)。女性にとって夫以外の男性に心を寄せることは、命がけどころかほぼ不可能だったと言えるでしょう。したがって、戦国の婚外関係は専ら男性(主に権力者)の特権であり、形式としての側室制度という公認の枠組みの中で行われていたのです。
姫たちの恋愛:政略結婚に生きた女性たちの想い
政略結婚の渦中にあった戦国の女性たちは、自らの恋愛感情をどのように扱っていたのでしょうか。ここでは戦国史に名高い「姫」たちの恋愛模様を見てみます。
お市の方:政略結婚の中の哀しき姫
織田信長の妹・お市の方は、その美貌と数奇な運命で知られる戦国の姫です。お市は浅井長政に嫁ぎましたが、これは先述の通り織田家と浅井家の同盟のための政略結婚でした。当初は政治的思惑で結ばれた二人でしたが、三人の娘(茶々、初、江与)をもうけたことからも分かるように、夫婦としての情愛も育まれていたと考えられます。史料には直接的なラブロマンスの記述は多くありませんが、大河ドラマや小説では仲睦まじい夫婦として描かれることが多いカップルです。しかし、お市と長政の運命は同盟破綻により悲劇へと向かいます。織田信長と浅井長政が敵対関係になると、夫の長政は最後は小谷城で自害し、同盟の証であったお市との婚姻も終焉を迎えました。信長は妹のお市とその娘たち(茶々・初・江)を救出しましたが、愛する夫を失ったお市の心痛は察するに余りあります。その後、お市は織田家臣の柴田勝家に再嫁します。これもまた政略的な要素が強い再婚でしたが、お市は数年間勝家の妻として過ごしました。やがて賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗北すると、お市は三度目の悲劇に見舞われます。彼女は幼い娘たちを助命するよう秀吉に託した後、勝家と運命を共にして自害しました。お市が再婚相手の勝家と心中したのは、織田家への義理もありますが、勝家への情愛や妻としての覚悟があったとも言われます。政略に翻弄され続けたお市ですが、その最期は武士の妻として夫への深い愛情と忠義を示したものとして語り継がれています。
細川ガラシャ(明智玉子):愛か信仰か、自由を求めた魂
「細川ガラシャ」こと明智珠(玉)子も、戦国時代の婚姻と愛を語る上で欠かせない女性です。明智光秀の三女である彼女は、十六歳で細川忠興(細川忠興)に嫁ぎました。これも織田信長の家臣同士(明智家と細川家)を結ぶ縁組でしたが、忠興はガラシャを深く愛していたと伝えられています。実際、二人の間には三男二女もの子供が生まれており、夫婦仲は当初良好だったようです。ところが、1582年の本能寺の変で妻・ガラシャの実父である明智光秀が謀反人となり討たれると、状況は一変します。本来であれば忠興は明智の娘である妻を離縁し実家に送り返すか、最悪殺すことで自らの潔白を示す場面でした。しかし忠興はガラシャを手放すことを選ばず、京都丹後の山奥(味土野)に幽閉する形で匿い続けました。表向き「妻を幽閉した」と宣言しつつ、忠興自身は密かにその地を訪ねガラシャの無事を確かめていたといいます。忠興にとってガラシャはそれほどまでに大切な存在であり、危険を冒してでも守りたい愛する妻だったのでしょう。幽閉生活という不自由の中で、ガラシャはキリスト教の信仰に救いを求めるようになります。やがて洗礼を受け「ガラシャ(Gracia)」の洗礼名で知られるようになりました。しかしこの信仰の道が夫婦仲に微妙な影を落としたとも言われます。忠興は非常に嫉妬深い性格で、ガラシャ付きの女中や神父にまで猜疑心を燃やしたという記録もあります。愛するがゆえの独占欲からくる異常な嫉妬だったとも評されますが、次第に夫婦間に距離が生まれていきました。1600年、関ヶ原の戦い直前に起きた細川ガラシャ最期の事件は有名です。石田三成ら西軍が人質戦術を図り、忠興不在の大坂屋敷で人質に取られそうになったガラシャは、自刃はキリスト教で禁じられていたため家臣に命じて自らを殺させました。ガラシャ26歳、非業の最期でした。忠興は妻の死に激しく泣き崩れたと伝わります。その後は再婚せず(側室はいたともされますが正室は迎えなかった)、ガラシャの死から約45年後に自身も亡くなっています。戦国屈指の悲劇のヒロインであるガラシャですが、その人生は夫の深い愛情と自由を求めた信仰心が複雑に絡み合ったものでした。彼女の生涯は、愛だけではどうにもならない戦国の現実と、それでも心の拠り所を求める人間の姿を私たちに教えてくれます。
淀殿(茶々):愛憎渦巻く天下人の側室
豊臣秀吉の側室として絶大な影響力を持った淀殿(よどどの)こと茶々も、戦国の婚外関係に生きた女性です。茶々は前述のお市の方と浅井長政の長女で、母譲りの美貌で知られました。織田家滅亡後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は大勢力となり、子宝に恵まれなかったこともあって、茶々を側室に迎えます。二人の関係は純粋な恋愛というより、秀吉が茶々に強く惹かれたことと、茶々が織田信長の姪(めい)であることによる権威付けなど政治的思惑もあったでしょう。しかし茶々自身も、幼い頃に父と弟を失い母とも死別するという壮絶な経験を経て、秀吉という天下人の庇護下で生きる道を選ばざるを得なかった立場でした。茶々は1589年に鶴松、1593年に秀頼という二人の男子を産み、秀吉は大いに喜びます。特に秀頼は待望の嫡男となり、茶々(淀殿)は実質的に豊臣家の「準正室」のような地位を得ました。秀吉は彼女に山城国の淀城を与えたことから「淀殿」の称号で呼ばれるようになります。
淀殿は華やかな後宮生活を送りつつも、秀吉の死後には息子・秀頼のために政治の表舞台に立つことになります。関ヶ原の戦いを経て台頭した徳川家康に対し、豊臣家を守るために奮闘しますが、1615年の大坂夏の陣で遂に大坂城が落城。淀殿は秀頼と共に自害し、その生涯を閉じました。淀殿個人の恋愛感情に焦点を当てると、史料には秀吉への愛憎が入り混じったエピソードが散見されます。秀吉からの溺愛を受けつつも、気位の高い彼女は正室ねねに対抗心を燃やし、また豊臣家臣の大野治長との密かな関係を噂されたこともあります(真偽は不明)。夫・秀吉に宛てた手紙では「早く会いたい」という内容を書き送った記録もあり、天下人をも翻弄する魔性の情熱を持っていた女性とも言われます。しかし最終的には母としての愛がすべてに勝り、我が子秀頼のために命を賭す道を選びました。淀殿の人生もまた、戦国という時代における女性の愛の形を象徴するものです。それは権力者の愛人という立場でありながら、母として一族を守ろうとする強さと、女性として愛されたいという想いが交錯する、複雑な愛憎劇でした。
有名武将たちの恋模様エピソード
戦国時代には、武将とその妻たちの間にも数々の恋模様エピソードが語り継がれています。いくつか印象的なものを紹介しましょう。
直江兼続とお船の方:生涯を共にした名将夫妻
上杉家の家老・直江兼続と正室のお船の方は、先にも触れたように戦国屈指のおしどり夫婦です。兼続は上杉景勝の腹心として各地を転戦し内政にも奔走した名将ですが、その陰には聡明な妻・お船の方の支えがありました。お船の方は元々は直江家先代・直江信綱の妻でしたが、信綱が亡くなった後に兼続がその未亡人である彼女を娶り直江家を継いだ経緯があります。いわば最初から政略的な再婚であったとも言える二人ですが、兼続がお船の方を深く信頼し大切にしていたことは、その待遇からも明らかです。米沢には二人の大きなお墓が並んで建っており、墓石の大きさも全く同じであることからも、兼続がお船の方を対等に愛し敬っていたことがうかがえます。長岡市の資料でも「内助の功で多忙な夫を支え続けた賢妻」であり、夫婦仲も大変睦まじかったと記されています。お船の方は兼続亡き後、藩主(上杉定勝)の生母代わりや人質役を務めたりと上杉家に尽くし、81歳の天寿を全うしました。最期まで上杉家から厚遇されたその姿は、戦国武将の妻として理想的な愛と忠義を全うした一生と言えるでしょう。
明智光秀と熙子(ひろこ):夫婦愛が伝説になった二人
織田信長を討った本能寺の変の首謀者として知られる明智光秀ですが、その私生活では一人の妻を深く愛した良き夫の顔が伝わっています。光秀の正室・熙子(ひろこ、通称はガラシャに対し「熙子夫人」とも)とのエピソードは、戦国時代の夫婦愛の伝説として語られるほどです。熙子は美濃国の土豪・妻木氏の出で、光秀とは若い頃に結婚しました。しかし熙子は婚約の直前に天然痘を患い、顔に痘痕(あばた)が残ってしまったといいます。それでも光秀は婚約を破棄せず熙子を迎え入れました。このエピソードからも、光秀にとって熙子は外見では測れない大切な存在だったことがうかがえます。そんな二人に試練が訪れたのは、弘治2年(1556年)に起きた美濃の齋藤家のお家騒動です。光秀の一族・明智家が争いに巻き込まれて居城を落とされた際、光秀は討死を覚悟しました。しかし身重(妊娠中)だった熙子のことが気がかりで、彼女を背負って城を脱出し逃亡したのです。単身での逃避行さえ命懸けなのに、あえてお腹の大きな妻を背負ってまで逃げ延びた光秀の行動からは、熙子への深い愛情と献身が感じられます。結果的に二人は辛くも逃げ延び、美濃を脱出することができました。
その後、浪人生活を余儀なくされた貧しい時期にも、二人の絆を示す逸話があります。生計が立たず困窮する光秀を支えるため、熙子はなんと自分の髪を切って売り軍資金を工面したのです。当時、女性の髪は鬘(かつら)などに高値で取引されたため、泣く泣く自慢の黒髪を切ってお金に換えたのでした。ある日、髪を短くした熙子を見た光秀は驚き、「まさか出家して俺の元を去るつもりではあるまいな!?」と怒ったといいます。落ちぶれた自分に愛想を尽かしたのではと不安になったのでしょう。しかし事情を知った光秀は妻の献身に深く感謝し、「例え天下を取ってもお前以外の妻は持たない!」と誓ったと伝えられています。この言葉通り光秀は熙子を生涯正室として大事にしました(近年、一説では側室がいた可能性も指摘されていますが、それでも正妻は熙子ただ一人でした)。熙子は本能寺の変の四年前に病死しますが、最期の瞬間も光秀の腕に抱かれながら静かに息を引き取ったとされ、大河ドラマでもそのシーンが感動的に描かれました。明智光秀と熙子の物語は、戦国武将と正妻の理想的な愛のかたちとして今も語り草になっています。
その他の武将たちの恋愛逸話
他にも、戦国武将とその妻・女性たちの恋愛逸話は数多く残っています。前田利家とまつ夫妻は、若い頃からの仲で夫婦仲睦まじく、利家が死去した後もまつは北政所(ねね)を支え加賀前田家を守りました。武田信玄の娘婿だった穴山梅雪は、妻(信玄の娘)を深く愛しつつも織田側に通じたため、その妻から離縁され命を落とすという悲劇も起きています(『風林火山』などで脚色されています)。また徳川家康の側室お万の方は家康に最も愛された女性と言われ、彼女が産んだ子が後の家光公となりました。夫婦愛や恋愛模様の形は人それぞれですが、戦乱の世でも人の心の機微は現在と変わらず存在していたことが、これら逸話からもうかがえます。
現代との比較:結婚観・恋愛観の共通点と相違点
以上見てきたように、戦国時代の結婚や恋愛事情は現代とは大きく異なる点が多々あります。しかし、人間の本質的な恋愛観には時代を超えて共通する部分もあります。最後に、戦国と現代の結婚観・恋愛観を比較し、その共通点と相違点を考察してみましょう。まず結婚制度の違いは明白です。戦国時代は家同士の結びつき(政略)が最優先で、一夫多妻制的な要素が公然と存在しました。一方で現代日本は法律上一夫一妻制であり、結婚相手は個人の自由意思で選ぶ恋愛結婚が主流です。現代では家同士の結び付きよりも、夫婦本人の愛情や相性が重視されます。これは戦国時代と真逆と言っていい価値観でしょう。例えば「好きな人がいるけど親に別の人と結婚させられる」なんて現代では稀ですが、戦国の姫たちには当たり前の現実でした。次に婚外関係(不倫)への認識も大きく異なります。戦国大名にとって側室を持つことは義務にも近い感覚でしたが、現代では配偶者以外との関係は基本的に「不貞」「不倫」とみなされ社会的に非難されます。現代にも愛人関係は存在しますが、それは公には認められない秘密の関係です。最近では結婚した上で互いに合意の下、別のパートナーとの関係を持つ「セカンドパートナー」という考え方も耳にします。
しかしそれも制度として公認されているわけではなく、あくまでプライベートな取り決めです。一方、戦国時代の側室は家中や世間も公知の事実でした。セカンドパートナー的な存在が男性側に公式に認められていた点は、現代から見ると大きな違いでしょう。ただ、人の心の共通点もあります。それはどんな時代でも「愛を求める気持ち」は消えなかったということです。戦国時代、たとえ政略結婚であっても夫婦が心を通わせようと努力したり、愛情深く接したりした例は数多くありました。また、複数の妻を持つ立場の男性でも、特定の女性を殊更に寵愛したり嫉妬したりと、人間くさい感情を露わにしています。秀吉がねねに宛てた手紙で「お前が一番だ」と機嫌を取ってから茶々を呼び寄せていたという話などは、まるで現代の浮気夫が妻の顔色を伺うようで微笑ましいものですし、同時にいつの世も男は…と苦笑いするようなエピソードです。
女性側も、たとえ自由恋愛が許されない環境でも誰かを想う気持ち自体は存在したでしょう。史料に表れにくいだけで、心の内に秘めた淡い恋や、夫以外に惹かれてしまう葛藤を抱えた女性もいたかもしれません。人間ですから、与えられた立場の中で精一杯に幸せを見出そうとするのは昔も今も変わりません。細川ガラシャが信仰に生きることで心の充足を得ようとした姿などは、現代で言えば仕事や趣味に救いを求める姿にも通じるものがあります。また、愛と義務のバランスという永遠の課題も共通しています。戦国の人々は家や主君への義理と自らの愛情の間で悩み、現代の私たちもまた家庭や社会的責任と個人の恋愛感情との狭間で悩むことがあります。お市の方がお兄様(信長)と夫(長政)の間で引き裂かれたように、現代でも家族の事情や社会の目と自分の気持ちを天秤にかける場面はあるでしょう。時代背景は違えど、恋愛観の本質──すなわち「人を想う喜びや苦しみ」は普遍的なのだと感じます。
最後に、現代に生きる私たちにとって戦国時代の結婚観・恋愛観を知ることは、自分たちの結婚やパートナーシップを見つめ直す良い材料にもなります。自由のなかった時代の人々も懸命に愛を育んでいた事実は、結婚や恋愛の意味を改めて考えさせてくれます。昔と今の違いを知ればこそ、今あるパートナーとの関係性や、もし第二のパートナーを求めるとして何を大事にすべきか、といったヒントが得られるかもしれません。戦国時代の夫婦たちは、与えられた環境の中で精一杯に人生を全うしました。現代の私たちは彼らより遥かに自由に生き方や愛の形を選べます。その自由の中で、歴史に学びつつ自分にとっての幸せな愛の形(夫婦愛やパートナーシップ)を見出していきたいものですね。
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